山口地区の歴史U

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新政権の最末端で行政を担う村として最低限の資力を確保するため、明治8年に岩崎・堀之内 ・打越・氷川・町谷・菩提木の六か村と川辺・堀口・大鐘・新堀の四か村はそれぞれ合併して山口村 ・上山口村を作った。
さらにこの二村とこの時単独村として残った勝楽寺村が、明治35年に合併して新生「山口村」となる。
明治22年に話しが持ち上がってから合併がなるまでは様々な利害が絡んで紛糾し、「組合村」として 急場をしのいだ末の合併であった。
山口村に東京市(当時)による貯水池建設計画が伝えられたのは大正末頃である。
山口谷の最上流部に堰堤を築き多摩川から水を引いて東京市民の上水に供しようとする計画は 、旧勝楽寺の全住民と旧堀口の一部住民の周辺各地への移転を余儀なくさせた。
この山口貯水池は、戦後観光資源として注目され、周辺の観光事業として力を入れた西武鉄道の 募集により「狭山湖」の愛称が決まった。
昭和26年には、一帯が県立狭山自然公園に指定され、レジャー施設ユネスコ村(昭和26年開園) 狭山山不動寺(昭和59年創建)などが並ぶ市内随一の行楽地となった。
昭和54年のプロ野球西武ライオンズ(当時)の進出はそれに拍車をかける事になった。
山口地区の恵まれた自然は、一方で乱開発の危険にさらされていた。虫食い状の開発を食い止めるため、 椿峰土地区画整理事業が施工されて椿峰ニュータウンが建設された。
丘陵地の景観を一変させるこの事業には反対の声も大きく、この時の運動は市内における自然保護運動の 嚆矢となった。
住宅都市化の流れで丘陵地の自然は大幅に失われたが、それでも山口地区にはまだ良好な自然が多く 残されており、現在も自然保護活動の中心となっている。